挑戦は怖い。挑戦しなかった自分に戻るのはもっと怖い

代表取締役 矢部 貴志
挑戦は怖い。挑戦しなかった自分に戻るのはもっと怖い

はじめて感じた“コト”に向かうことの楽しさ

建設業を営む父と、個人事業としてピアノ講師をする母の間に生まれ、大学を卒業する頃までは神奈川県横浜市で育ちました。

うすら覚えですが、家の中で遊んだ記憶はほとんどなく、幼稚園の頃から1人で外に遊びにいき、門限までに帰ってくるといったアクティブな少年だったと記憶しています。

小学校4年生のときに人生を大きく変える出会いがあります。
バスケットボールとの出会いです。

人生ではじめて、夢中になったコトでした。

身長が急激に伸びたこともあり、どんどんとのめり込んでいき、いつどこにいてもボールを持ち、時間さえあれば外に出て、リングにボールを放っていました。

そして、いつしか全国大会に出場することを夢見て、練習に励みました。

結果として、チームでの出場は出来ませんでしたが、神奈川県の代表選手として全国大会に出ることができたのです。
人生で初めて大きな目標が叶った出来事でした。

私は、バスケットボールとの出会いで、ひとつの“コト”に向かうことの楽しさを覚えました。

夢中になり、難しい目標を掲げて、達成する喜びは、何にも代えがたいものでした。

そして、そのステージで出会う仲間やライバルは、かけがえのない戦友となりました。

全員が高い目標を持ち、コミット力の高い人たちで、今でも「あいつらに負けてられない」と思えるほどの原動力のひとつになっています。

絶望の淵で掴んだ、大学受験合格

高校3年生の5月に、絶望的な出来事が起こります。

校長室に呼ばれ、不気味にも優しい表情をした校長から「矢部くん、君は退学です」と、突然の退学通知を突きつけられるのでした。

スポーツは真剣に取り組んでいたのですが、恥ずかしながら勉強には興味が持てず、偏差値が50もない高校で約200人の同級生の中で下から3番目の成績でした。
下からです(笑)。

単位不足に加えて、生活態度も良くないということで、退学と判断されました。

中卒の就職先を探すと、低賃金の力仕事ばかりで興味が持てませんでした。
絶望した私は、再度校長室に行き、土下座の末、条件付きで退学を免れました。

退学を突きつけられた私は、そのとき人生ではじめて将来のことを考えました。

働きたくないし、興味のある専門学校はない。
消去法で大学進学しかないことを悟りました。

勉強をまともにしたことはなかったので、塾を探しはじめました。

とある大手塾の受付に入会希望に行くと、「文系ですか?理系ですか?」と聞かれ、
私は「それなんですか?」と聞き返したら、入塾を拒否されてしまいました。

きっと、この時期にこのレベルの学生を入れても合格率が下がるだけだと思われたのでしょう。

別の塾に入会希望に行ったときです。
受付の横に「慶應義塾大学 SFC 学部長講演」というチラシが置いてあり、当日参加可能とのことで、何の気なしに参加してみました。

そこで、学部長はこう言いました。

「世の中の大きな問題を解決することに興味はないか?
しかし、普通の勉強をしていても、世の中の問題は解決できない。
例えば、経済学だけでも、経営学だけでも、商学だけやっていても解決できない。

問題を発見し、それに必要な学問を自分で選び、単位にして良い。
経済学部、経営学部、文学部、全学部の授業が単位にできる。
従来のボトムアップ式ではない、トップダウン式の「問題発見・問題解決」
この力を付けるための実学を学ぶのが慶應大学SFCのスタイルだ。」

これを聞いて、「ここしかない。ここ以外行きたくない。」
そう思い、慶應大学に行くことを目標にしました。

そこから努力をして偏差値32からスタートし、8ヵ月間で偏差値70の慶應大学SFCに奇跡の合格を果たしました。

起業家との出会いと、フラストレーション

何とか滑り込んで慶應大学に入学した私は、これまで出会ったことのない人種との交流が始まります。

エンジニアオリンピックで優勝した人、起業ピッチコンテストで優勝して海外でインターンをする人。

これまでの偏差値50に届かない高校のコミュニティとは一線を画す人たちとの出会いに戸惑いすら覚えていました。

特に、慶應SFCには起業家も多くいます。
学生起業家も多く、学校内に慶應藤沢イノベーションビレッジ(SFC-IV)という施設があり、スタートアップのコワーキングオフィスがあったり、学生に比較的ライトに出資してくれる制度もありました。

当時の私が感じた「すごい人たち」と比較した何者でもない自分への焦燥感はフラストレーションとなり、後の起業へのエネルギーとなりました。

もちろん、友人と過ごした楽しい時間や、学びはかけがえのない時間でした。
ただ、今でも思います。あの頃の自分には戻りたくない。と。

また、同級生や近しい先輩にあたりまえのように起業家がいる環境にいたことで、「起業」という選択肢が無意識に自分の中に存在していたのは確かでした。

就活で感じる「正解のない」意思決定への違和感

比較的起業家が多いキャンパスではありましたが、多くの人は就職をします。

就職活動が始まると周囲には、誰もが知っている総合商社や大手広告代理店、外資系コンサルティングファームを志望する人で溢れていました。

私には、なぜみんなが一斉に同じような会社を受けるのかさっぱり理解できませんでした。

しかし、みんなが受けるからにはそれなりに良いものなのかなと思い、ネームバリューがある大企業をかたっぱしから受けてみました。

結果、その理由はよくわかりませんでした。

ただ、1つ結論付けたこととしては、結局、就職に正解はなく、どこに行ってもそんなに変わらない。
まずは、自分が力を付けることが一番近い正解だということでした。

企業が数十年後にどうなっているかは、誰にも予測できないしコントロールできないけど、自分自身のことならどうにかできる。

であれば徹底的に自分を磨こうと決めました。

とはいえ働いたこともなく、社会についてもよく分からないため、「一番厳しそうなところ」という以下3つの条件で就活を始めました。

・新規開拓の法人営業
・無形商材
・業界3位未満の会社

法人営業は感覚だけでなく、ロジカルさも必要で、ルート営業よりも新規開拓の方が難しいと思いました。
無形商材は製品スペックに頼れない営業力が必要。

また、ネームバリューがない方が営業が難しいと思ったので、周囲の“ブランド転職”とは逆行して、業界No.3未満のブランド力の会社を選びました。

「早く力をつけて起業します」と言って面接をしていたので、当然落ち続けていましたが、その中で内定を出してくれたのが、キャリアデザインセンターという会社で、入社することに決めました。

今振り返ると、就活で感じた「正解のない」意思決定への違和感は、今の「ともに、HRに正解を」というミッションに繋がる初めての原体験だったと感じています。

始めての転職

新卒入社後は、求人広告の新規営業からキャリアをスタートし、テレアポ、飛び込みというハード営業を経験しました。

その後、RPO(採用プロセスアウトソーシング)、人材紹介、採用コンサルティングと、HR領域のさまざまなポジションを経験させてもらいました。

有難いことに、毎回苦手なことをやる部署に配属され、マスターしたら次に行くといった繰り返しで、色んな筋力が鍛えられました。

成長の過程では筋肉痛のような痛みがあるものだと思っています。
出来ないことをやるのだから、当然負荷がかかります。

しかし、最初の方は筋肉痛だらけでしたが、3年くらい経った頃から出来ないことが徐々になくなってきて、筋肉痛を感じなくなってきました。

それに気付いてはいるものの、変えるきっかけを失っていた、というか楽な方に逃げていた自分がいました。

ちょうどそのころに、大学時代に出会った同級生から電話がありました。
それは「独立するから、一緒にやらないか」という連絡でした。

何をするか決まっていませんでしたが、少なくとも今よりはエキサイティングだと思って、
すぐにジョインすることを決め、会社を退職しました。

明日の飯が食えない。
から生み出された新規事業アイディア

そんな流れだったので、人生初の転職は“副社長”という肩書での転職となりました。

副社長とはいえ、売る商材もなく、チームメンバーはゼロ。
まずは自分の知見を活かせて元手がなくても売上を作れる「人材紹介業」を始めることにしました。

ただ、他社と同じことをやるのではつまらない。
やるからには徹底的に求職者に寄り添った転職エージェントになろうと決意しました。

しかしスタートして半年経っても売上がゼロ。
明日の食い扶持さえもない毎日。

焦る気持ちから、気が付くと転職希望者のキャリアは二の次で、機械的に企業に斡旋するブローカーのような仕事をしていました。

それから、1日3時間睡眠で量をこなすことで、一定の安定的な売上をつくることができ、何とか飯を食っていけるまでにはなりました。

少し考える余裕が出てきたころです。
親友から連絡があり、「転職したいんだけど、相談していいか?」と。

そのとき、私はその相談を「忙しいから」という理由で断りました。
でも、それは嘘でした。本当は忙しいから断ったのではなく「ブローカー的に転職先に押し込んでいた自分の仕事に自信がなかったから」でした。

そのとき、我に帰りました。
身近な人に提供できないサービスを運営している。

こんなことを一生かけてやる仕事にしていて良いのかと。
この状態を脱したいと思い、同じ転職支援業界の何人もの先輩経営者のところに足を運んで、どのように事業を運営しているのか聞いてみました。

しかしながら、ほぼすべての会社で同じ問題を抱えていました。

私は、人材業界のこの状況を何とかしたい。
自分の業界に対するネガティブな感情と、人生のミッションのようなものを見つけた期待感とで複雑な心情であったことを覚えています。

後に言語化することになる、事業ミッション(コーポレートミッションとは異なる)「人材紹介の価値を証明する」という目標ができた瞬間でした。

そこからあまり時間は掛からずに、人材紹介プラットフォーム構想に辿りつきます。

まずは、求人データベースを構築すること。
つまり、転職エージェントが、十分に求職者に提案できるだけの求人ラインナップを揃えること。

紹介されるごとに増えていくデータトランザクションから得られる選考データを活用して、マッチング精度を上げること。

そして、その結果、各エージェントにエージェントにしかできない仕事をしてもらう、つまり「気付きを与える」という意思決定支援をすることをあたりまえにする。

これが、人材紹介プラットフォーム構想の初期アイディアでした。

これによって、“人材紹介の価値を証明する”ことへの挑戦を決めました。

手段で決めた「起業」。

次に考えたことは、この事業アイディアを、どこで実現するのか、でした。
この段階では、まだ起業することは決めていませんでした。

当時の代表にこの事業を社内でやらないか提案しましたが、当時の代表の答えはNoでした。

面白いし伸びる可能性はある。でもリスクもあるし今ではない。
という回答でした。それは経営判断としては当然の回答でした。

また、知り合いを辿って、大手人材会社にも新規事業アイディアとして持ち込みました。
ここでは新規事業としてやることにオファーをいただきました。

そこから1週間考えた末、起業して自分でやることを決めました。

起業することを決断した理由はもちろん色々とありますが、一番の理由は、“自分の決断に自信があったから”でした。

過去の経験から何となく分かっていました。
優秀な人が成功するのではなく、我慢比べで負けない人が勝つということを。

経営者としてきついときに、信念と反する方向に決断してしまったり、上手くいったときに、楽な決断をしてしまったり。

自分より優秀な人はたくさんいるとしても、強い信念や高い志を持ち続けることについては、自信がありました。

蛇足ですが、なぜ自信を持てるのか、をたまに聞かれることがあるのですが、両親が「高貴な志を持ち続けて人生を歩んでほしい」と「貴志」という名前を付けてくれたそうで、きっとそうやって育ててくれたからなのかなと思っています。

最終的には、「自分で起業したいと思える事業じゃないと成功しない」と自問自答した結果、起業したい、と思い、起業を決めました。

こうしてcircusという会社は、「業界を変えるための事業を、形にするための手段」として始まりました。

そのため、この先どこまで行っても“業界を変える事業”が最優先にあると思います。

創業時に決めた「HRにNewStandardを。」
という事業ドメイン。

起業にあたって本社事務所が必要だったので、建設業を営む父に頼み、建設会社の地下倉庫の空いているスペースを事務所として登記させてもらうことにしました。

しかし、あるのは事務所だけ。
仲間もお金もサービスもゼロからのスタートでした。

創業してから1週間程経ったとき、社員がいないときです。
ミッションビジョンよりも先に決めたワードがあります。

それは、このコーポレートサイトのトップにも書いてある
「HRに、NewStandardを。」という言葉です。

前述した“起業した理由”を忘れないために、創業時からずっとコーポレートサイトのトップに置いています。

お金儲けをするためでも仲良くするためでもない。
カッコつけずに言うと、どうせやるなら人材業界を根底から変えるようなオモシロくて、デカイことをやりたい。新しいあたりまえをつくりたい。
そんな想いのもと、起業しました。

人材業界自体をより良く変えていくことが私たちの使命です。

業界No.1プラットフォームができるまで

私はエンジニアではないので、事業構想はありますが作り手がいません。

そこで、前職のエンジニアである友人を新宿のカフェに呼び出し、相談することにしました。

私の頭の中にある事業構想を話してみました。
一通りやりたいことを話したあとに「作れるか?」と聞くと、間髪入れずに「全然できますよ」と言うのです。

その後なにを言っても出来る、と返ってきました。
このときに、自分の頭の中にあることが実現できるんだ、と背中を押された感覚を持ちました。

話すほど面白い、と言われて気持ち良くなってどんどん話していったのを覚えています(笑)。

そして彼は、プロトタイプ作りを手伝うと言ってくれ、友人のエンジニアを1人集めてもらって開発がスタートしました。

最初のプロダクトだったので、かなり気合いが入っていました。
要件から開発思想から何からなにまで拘りました。

その結果、期日は大きく遅れたうえにローンチまで辿り着きませんでした。
設計思想についていけるエンジニアが集まらず開発スピードが上がらなかったため、最終的には開発を中断してしまいました。

そして、0から作り変えることに決め、最初から開発会社のパートナーも交えて開発を進めていくことにしました。

オフショア開発チームもジョインしました。
しかし、今度は逆にプロダクトの品質が担保できなくなり、リリースはできましたが、次のページに遷移するのに15秒以上かかるサイトがリリースされました(笑)。

その反省を活かして、3号機を開発し、今のシステムが出来上がりました。

2回の失敗を活かし、プロダクトのUI/UXから、設計思想、レスポンススピードまで、非常にハイクオリティなプロダクトが完成しました。

その後circusAGENTは、お客様に受け入れられ、瞬く間に業界全体に拡がり、業界No.1の人材紹介プラットフォームへと成長しました。

本当にあったキャッシュショート寸前の危機。

システムをリリースして2年くらい経過した頃です。

よく、経営者から「キャッシュショート直前で地獄を見かけた」みたいな話を聞いたことがありましたが、明日はわが身とは言いますがそれが起きたのです。

トップラインは伸びており、事業自体は順調でした。
それでもキャッシュショート寸前になったのには大きく3つの理由がありました。

①月額利用料というストック収益モデルにしたこと

マッチングプラットフォームをグロースさせるためには、短期間でトラクションを最大化して利用者に価値を感じてもらうことが何よりも重要なポイントでした。

会社員時代の求人サイト運営経験から、成果報酬型の方がユーザーは集まりますが、前金型または月額課金型の方が利用意欲が上がることは分かっていました。

そのため、初期の課金モデルは、月額課金モデルを採用しました。
結果としてはそれがフィットし、ユーザーの利用数が課金額が高いほど大きくなっていきました。

しかしながら、経営的にはこの月額課金モデルは、積み上げ式の売上モデルとなるため、損益分岐点以降は安定収益となる一方でそれまでは長期の赤字が続くことになります。

②エクイティファイナンスをしなかったこと

当時はまだ人材紹介DXという単一事業で、限定的なマーケットであったため、エクイティファイナンスをしてレバレッジを利かせて成長させることが難しい領域でした。

無理して資金調達をすることはできたかもしれませんが、株主の期待値調整が難しく、良いリレーションを築いていくことが難しいと判断したためVCからの資金調達をやめることにしました。

実業で作った利益と、銀行借入を新規事業に投資していくという方針で経営を進めていきました。

③プロダクトの質に拘り投資を続けたこと

プロダクトづくりは、思うようにいかないものです。
前述の通り、作る➞試す➞壊す、を繰り返して良いプロダクトを作ってきました。
想定よりもコストが掛かり、多くの資金を投下してきました。

赤字自体は計画の範囲内でしたが、その損益分岐ラインが計画から数カ月ずれてしまいました。

すでに多くの借入をしていたので、これ以上銀行から借りることはできず、追加の資金繰りに苦戦していたのです。

この頃のミーティングは、どうやって資金を作るかという足元の話が中心で、決して明るい雰囲気ではありませんでした。
求人広告の代理店や採用代行事業を同時に行うことで、何とか利益を確保しました。

「こんなことをやるためにジョインしたわけじゃない」と思ってもおかしくない中で、メンバー全員が「あとどれくらい必要ですか?今はこんなことやった方がいいんじゃないですか?」と、前向きにアイディアを出してアクションしてくれました。

役員報酬はギリギリまで落とし、住まいは会社から歩けるところにある1泊3,000円のカプセルホテルに泊まり、切り詰めて生活をしていました。

取締役に数百万円の出資もお願いしました。
情けないことに、それでも足りず、キャッシュショート2週間前に、先輩経営者から資金援助をしていただきました。

事業計画も決算書も見せずに貸していただき、「もっと早く相談にきなね」という言葉に男気を感じ、今でも頭が上がりません。

こうしてたくさんの人に助けられ、circusは事業を継続することができたのです。

業界No.1サービスへの急成長と、
ネクストフェーズに向けて。

俗に言う「死の谷」を乗り越え、事業が黒字転換すると売上は創業以来毎年200%以上の成長となりました。

そして、ストック型収益事業がキャッシュカウとなり、投資計画が立てやすくなり、新規事業にチャレンジできる基盤ができました。

しかし、ここまでの話は、過去の話です。

企業が成長を続けるためには、変わり続けないといけません。
過去の実績に縛られることなく、未来に向けて変わっていく。
これが多くの企業ではできずにブレイクスルーできないんだと思います。

今、circusは、経営を中心に“変わること”を強く意識しています。

これまでは、少数精鋭の組織で“良い事業”を創ることへの最短距離を追ってきましたが、ネクストフェーズでは、より多くの良い事業を生み出し続けるための“良い会社”を創っていくフェーズです。

そこで、circusらしく成長を続けるために「組織の状態目標」を4つの分野で設定しました。

①コモンセンス(共通認識を持つ)

経営の方針、現場から見える課題感の双方で共通認識を持つことは事業運営において重要なことだと考えています。

これまでの社員規模であれば、言語化するだけで一定の共通認識を持つことができていましたが、今後は、意識的にあらゆる機会を創出していく仕掛けをしていきます。

②モチベーション(挑戦への原動力が育つ)

挑戦することが自分を成長させる上で重要であることはほとんどの方が理解をしていると思います。

一方で、新しいことを始めることは、出来ないことを始めることになるので、とてもストレスが掛かることだと思います。
その挑戦への背中を押す仕掛けを、会社が作っていきます。

③チャレンジ&エラー(抜擢され、挑戦する機会がある)

挑戦したいという気持ちが育ったら、実際に挑戦する機会があることが大切です。

会社がチャレンジした気持ちと能力を認め、抜擢する環境が大きく人を成長させます。

私自身が最もそうでしたが、会社を起業して経営するなかでほとんどが初めてのことでした。

自分自身で自分を抜擢して、挑戦して、失敗から学んで成長するということを繰り返してきました。

④スキルアップ(目標を実現するスキルを持つ)

失敗から学んで成長する、とはいえ失敗するつもりでやっていては成功はしません。

目標達成の成功確率を上げるために、スキルアップできる環境を整えていきます

今まさに、強い組織を創っていくために再度アクセルを踏んでいくタイミングです。

その過程では、様々な大きな問題や壁が立ちはだかると思います。
それを乗り越えて、HR領域に新しい"あたりまえ"を創り続けていきます。

きっと、これからのcircusが一番面白い。本気でそう思います。

これからのcircusに注目いただければ幸いです。